第1話:「スムージーと私」/NO(money+love) —私らしい人生って?—
「お金もない」「愛もない」そんな崖っぷちに立つ桃夏 (30歳)のリアルな日常を描いた奮闘ストーリー
第1話「スムージーと私」
大きく欠伸をすると、左目から少しだけ涙が出た。
ガラスの向こう側に見える、空の色は青い。
早起きが出来たから、朝からオシャレな飲み物を作ろうと思った。
昨日の帰り道の時点で、今朝が特別な日になるように、材料は揃えてあったけど。
初めて作った「緑野菜のスムージー」の青臭さに、一口飲んでむせた。
「早起きなんて、珍しいじゃん」
声に振り向くと、濡れた髪にタオルを肩にかけた状態で、海斗が立っていた。
海斗は、毎日健康維持の為に早起きしてランニングをしている。
「何飲んでるの?」
海斗が指差した、ピンク色のマグカップを無言で差し出す。
マグカップを渡す時に、石鹸の匂いがした。
いつもの、私たち2人の生活の香り。
「うわ、青汁?何これ?」
匂いを嗅いで、眉根を寄せたまま、怪訝そうな顔で、そっと海斗がマグカップに口をつけた。
「美味しくないよ」
海斗が言葉を発する前に、自分で自分を守るのが癖になっていた。
「まぢいー」
基本的に、海斗は私のことを褒めたりはしない。
私が海斗に何かを与えることがあっても、それに対してお礼もない。
「捨てて良いっしょ?」
予想していた一言に、私は頷いた。
1500円のスムージーが、排水溝へ消えていく。
海斗の中のプライドとか、寂しい気持ちとか、そういった類の何かを満たす為だけに私は存在していると、昨日の晩ハッキリと気がついてしまった。
「ねぇ」
左手でタオルを持って髪を乾かしながら、タバコを取り出している海斗の背中に声をかける。
この3年間、抱きしめても距離があった背中。
カチッとメンソールを噛む音がした。
「ん?なに?」
タバコの箱と灰皿を持って、目の前に座った海斗の目が、まっすぐに私を見る。
いつものタバコの匂いに、私は小さくむせた。
「今日って、何曜日だっけ?」
「日曜日でしょ?」
机に置いてあった携帯電話を取り出して確認すると、海斗はタバコを吸って、ゆっくりと煙を吐き出した。
「何日だっけ?」
「9日でしょ?」
即答した海斗は、急に大切なことを思い出したように立ちあがった。
「今日から、オープニングが新しくなるんだった」
大橋海斗、28歳、フリーター。
テレビから、力強い音楽が流れ出した。
「あのさ、私、昨日誕生日だったんだけど」
「あぁ、そうだったね」
灰皿に、トントンと灰を落とした海斗の表情は、一つとして変わらなかった。
「覚えてたの?」
「さっき、カレンダー見て思い出した」
私が買ったテレビが、私に馴染みのないアニメ映像を流すようになったのは、海斗と生活をするようになったからだ。
私のものだったはずの全ては、いつの間に海斗のものになっていた。
「…それだけ?」
熱い涙が、目から零れ出した時、私は私自身に驚いた。
「えっ、なんで泣いてんの?」
確かに、海斗がいるだけで、そこにいてくれるだけで十分だった日もあった。
お金にも、何にも変えられない存在。
ただ、海斗の中での私は、心地よく生きていく為の手段でしかなくなってしまっていた。
2人で生活していくうちに、私は「恋人」の地位を失っていた。
いつ、どこで失ってしまったのか、全くもって覚えもないけれど、こういう日を迎えることは、出会った時から決まっていたのかもしれない。
「女の人って、一定値を越えると、お誕生日は嬉しくないものじゃないの?」
いつもの調子と、海斗は何一つとして変わらなかった。この感じが、私の悲しみを濃くした。
「女を女にさせるのは、男。男を男にするのは、女。その役割がお互いにあったとしたら、私たちはお互いにとって真のパートナーではないんだと思う」
私が家賃を支払って、私が買った家具に囲まれて、そこに3年間当たり前のように毎日海斗がいた。けれど、この部屋で傷ついたのは、私一人。
行き場のない悲しさに、私は小さく体操座りしたところに顔を埋めた。
やっぱり、海斗の背中は、遠かった。
「へ?どういうこと?」
可愛らしい魔法少女達が活躍しているテレビアニメの音の中から、海斗の太い声が耳に響く。
テレビのリモコンを手に取り、電源を落とした。
「私たち、今日で終わりだよ」
静かになった部屋で、私と海斗は向き合った。
初めて海斗がこの家にやってきた日も、アニメを好んで海斗はつけていたことを思い出した。
けれど、もう、この部屋でアニメを観る日はきっとないだろう。
そんなことを私は思った。
30歳、独身。
新しい、特別な朝だった。