第13話:「過去から新しい毎日へ」/NO(money+love) —私らしい人生って?—
平穏な日々を送り始めた桃夏。
そんなある日、元カレである海斗が現れる。思いもよらない言葉をかけられて…
前回 第12話「ふわっとフレンチトースト」
第13話「過去から新しい毎日へ」
「桃ちん…?」
背後から聞こえた、聞き覚えのある声に身体が強張ったのを感じた。
ただ、この声が私の名前を呼んだのは随分と久しぶりのことで、私は聞こえない振りをした。
まりんが待つ家へと向かって、夜の大通りを歩いていた。
「ちょっと」
唐突に腕を掴まれたせいで、嫌でも振り向くことになった。
Vネックにジーパンというラフな格好をした海斗と、約二週間振りに対面した。
「突然なに?ストーカー?」
私の言葉に、海斗は自分の前髪を掻き上げるようにして撫でた後、首を横に振った。
「事務所からの帰り道。たまたま見つけて、声を掛けただけ」
俳優を目指していると言っていた24歳の海斗に出会って恋に落ちた時、偶然私は住居の契約更新の時期だった。
海斗と付き合って一ヶ月経たない内に、引っ越した今の家。
元々ルームシェアという形で俳優仲間と生活していた海斗は、居心地よく住める場所を欲していた。
海斗を支えたい気持ち一つで今の家へと引っ越すと、海斗はベッドと自分の身の回りのものを持って私の家へとやってきた。
-惚れたが負け、ってやつだから。
海斗を迎え入れた私は、そう言って笑った気がする。
悪い噂話なんて、海斗について山ほどあった。
ただ、他人から何て言われようと気にならない位、あの頃の私は海斗にゾッコンだった。
私が変えてやる!くらいに、思っていた。
「そういう時は、無視して歩いてよ。私たちは街ですれ違ったとしても、声を掛けるような仲ではないんだよ?」
表情筋を一つも動かさすに、ただ海斗はボンヤリとした表情で私を見ていた。
「分かったでしょ?これ以上、私に傷を増やさせないで」
喉の奥から絞り出すようにして発された言葉は、少しだけ震えていた。
これ以上、海斗と向き合っている気分にはなれず、私は海斗を背にして歩きだした。
欠けている月が見えていた。
「ありがとう」
海斗が大きな声で投げつけてきた言葉は、背を向けたまま受け取ることになった。
この3年間ずっと心のどこかで欲していた言葉が、やっと私の耳に届いた。
振り向いて何か言いたかったけれど、泣き顔を見せたくなくて小走りで家に向かった。
「わ!桃夏さん、何があったんですか?」
いつものように、玄関を開けてくれたまりんは、目を丸くして驚いた声を上げた。
「元彼にね、会ったの」
「え?どういうことですか?」
「いや、さっき、道で偶然…」
「海斗さん、でしたっけ?」
コクンと頷いた私は、無意識のうちにまりんに抱きついていた。
まりんの温もりを感じながら、ヒンヒンと子供のように泣いた。
「ありがとうって、言われたの。今まで3年間、ほぼ言ってくれなかったし、別れた時も言われなかったのに」
「他には、何か言われたんですか?」
「いや、逃げるようにして帰ってきちゃったから何も…」
まりんから離れて涙を手で拭うと、情けないと思いつつも、何かが浄化されたように気持ちがスッと軽くなった。
「落ち着きましたか?」
まりんの一言に頷くと、まりんは優しく微笑んだ。
「梅昆布茶でも、入れましょう」
「ごめんね、ありがとう。部屋着に着替えて、顔洗ってくるね」
残業上がりの時は、夕飯を食べない。
そんな私を気遣って、梅昆布茶を入れてくれる優しさが沁みた。
「まりんはさ、好きだった人とかいないの?」
自分の話しをしたら、また泣いてしまいそうで、海斗の話題から逃げた。
昆布の優しい味と梅の塩気が、心をほぐしていく。
「いますよ」
「元彼?」
「社会人になってから片思いしていた人とかいたんですけどね、今でもたまに思い出すのは大学生の頃に付き合っていた彼氏です」
「どんな人?」
まりんは、口をキュッと結んで少し考えた後、話し始めた。
「またね!っていう言葉が好きな、不思議な人でした。ただ、私、彼氏の前だと自分の感情を素直に表現したり、伝えるのが苦手で。お付き合いしている期間、本音を隠し続けちゃったんです。けれど彼は、眩しく見えるくらい素直な人だったので、私の態度や姿勢に疲れちゃったみたいで。私は、彼の癒しにはなれなかった。だから、いつの間に2番目の女になっている形で終わっちゃいました」
「えっ?二股されたってこと?」
「共通の知人の話しを聞く限り、そうだったんだなって」
まりんの目に、うっすらと涙が浮かんだ。
「ここ、励ますところですよっ!桃夏さん!」
しばらく何も言えなかった私を前にして、まりんは笑いながら言った。
「だって、まりんみたいな子が二股されちゃうって思うと、なんか自信も何も無くなっちゃって…。そいつ最低だなって思うけど、それより、まりんみたいな子が二股されちゃうっていう事実が、もう驚きで!」
「桃夏さんは、私の事を高評価し過ぎですよ。桃夏さんが思っている程、大それた人間じゃないです」
困り眉をしたまま、まりんは首を振って梅昆布茶を飲んだ。
「いや、でもっ!」
「それぞれ、オンリーワンですからね。私にもピッタリの相手がどこかにいて、桃夏さんにもピッタリの相手がどこかにいるはずです。二人とも、元彼たちは縁がなかったっていう。それだけだと、思うんです」
「そっかぁ。けど、今世にいるかな?」
梅昆布茶を飲み干したまりんは、ニコッと笑った。
「来世だって、良いじゃないですかっ。とにかく、今を楽しむのがイチバンです」
目を合わせて頷くと、まりんも大きく頷いた。
「ヘミングウェイの言葉で、好きな言葉があるんです」
「なに?」
「Every day is new day」
まりんの綺麗な発音の英語が、耳にスッと入ってきた。
「シンプルだけど、素敵な言葉だね。やっぱり私は、まりんといたら希望の光が見える気がする」
「希望の光を見せているのも、桃夏さん自身ですよ」
グッドサインをしてきたまりんに、私もグッドサインを返した。
新しい明日。
とにかく、新しい毎日。
まりんと話しているうちに、私の中でグルグルと存在していた海斗へ対する想いも、いつの間に浄化されていた。